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絵の並びについては、上の方が古い出来事で、下に行くほど新しい出来事です。

明治時代(1868年 - 1912年)

五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)

1868年

明治天皇が天地神明に誓約する形で示した明治政府の基本方針。

  • 広く会議を開いて、全部話し合いで決めようぜ。
  • 上の立場の者も下の立場の者も心ひとつにして盛んに国家を治めよう。
  • 公家・武家・庶民に至るまで志を遂げ、なんかいい感じにしてこう。
  • 古い悪習を捨て、国際法に基づこう。
  • 知識を世界に求めて、大いに天皇が国を治める基礎を盛んにしよう。
五榜の掲示(ごぼうのけいじ)
五榜の掲示(ごぼうのけいじ)

1868年

太政官が立てた五つの高札。太政官(明治政府)が民衆に対して出した最初の禁止令。

主な禁令としてキリスト教の禁止など。

新政府の当初の暫定的な姿勢を表明したものとして、6年も経たないうちに全て消え去る事となった。


政体書(せいたいしょ)
政体書(せいたいしょ)

1868年

明治政府の組織法。

  • 太政官への権力集中
  • 三権分立
  • 官吏公選

などを規定。

神仏分離令(しんぶつぶんりれい)
神仏分離令(しんぶつぶんりれい)

1868年

明治元年(1868年)、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、神仏分離令を発した。


大村益次郎(おおむらますじろう)
大村益次郎(おおむらますじろう)

1824年 - 1869年

医師。西洋学者。兵学者。維新の十傑の一人。

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。1869年に暗殺された。

版籍奉還(はんせきほうかん)
版籍奉還(はんせきほうかん)

1869年

明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。


知藩事(ちはんじ)
知藩事(ちはんじ)

1869年

版籍奉還により領地・領民を朝廷に返還した旧藩主274名が任命されて成立した地方行政官。廃藩置県後は、知藩事全員が失職して華族となり、その役目を終えた。

工部省(こうぶしょう)
工部省(こうぶしょう)

1870年

殖産興業を推進するために1870年に設置された政府官庁。官営事業を推進した。


大教宣布の詔(たいきょうせんぷのみことのり)
大教宣布の詔(たいきょうせんぷのみことのり)

1870年

明治天皇の名により出された詔。神道を国教と定めて日本を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

横浜毎日新聞(よこはままいにちしんぶん)
横浜毎日新聞(よこはままいにちしんぶん)

1871年

横浜で創刊された日本最初の日刊新聞


廃藩置県(はいはんちけん)
廃藩置県(はいはんちけん)

1871年

明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。

薩摩・長州・土佐の3藩の軍事力を背景に廃藩置県を断行した。

これにより「地方の統治をそれぞれの知藩事に任せることによる税徴収の非効率」「戊辰戦争などに起因する幕末期の各藩の悪化した財政」を解決し、中央集権化が図られた。

また、これにより知藩事は全員失職して華族となり、その役目を終えた。

府知事(ふちじ)
府知事(ふちじ)

廃藩置県により府・県ができると、地方長官を知事と呼んだが、1886年以降は府に関しては府知事の呼称となって現在に至る。


県令(けんれい)
県令(けんれい)

1871年7月の廃藩置県により府・県ができると、地方長官を知事と呼んだが、県については同年11月から1886年まで県令と称した。1886年以降は県に関しては県知事の呼称となって現在に至る。

三島通庸(みしまみちつね)
三島通庸(みしまみちつね)

1835年 - 1888年

武士(薩摩藩士)。内務官僚。

1871年、東京府参事。文明開化の象徴と言われた銀座煉瓦街を建設した。のちの県令時代には反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」と呼ばれた。


岩倉具視(いわくらともみ)
岩倉具視(いわくらともみ)

1825年 - 1883年

公家。政治家。

1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した。

大久保利通(おおくぼとしみち)
大久保利通(おおくぼとしみち)

1830年 - 1878年

武士(薩摩藩士)。政治家。

1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した。


伊藤博文(いとうひろぶみ)
伊藤博文(いとうひろぶみ)

1841年 - 1909年

武士(長州藩士)。政治家。

1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した。

木戸孝允(きどたかよし)
木戸孝允(きどたかよし)

1833年 - 1877年

武士(長州藩士)。政治家。

1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した。


山口尚芳(やまぐちなおよし)
山口尚芳(やまぐちなおよし)

1839年 - 1894年

武士(佐賀藩士)。政治家。

1871年12月23日から1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である岩倉使節団に参加した。

岩倉使節団(いわくらしせつだん)
岩倉使節団(いわくらしせつだん)

1871年12月23日 - 1873年9月13日

日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団。総勢107名で、岩倉具視を正使とした。目的は

  • 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する
  • 江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正のための予備交渉
  • 西洋文明の調査

だが、不平等条約の改正は日本に近代的な法制度が整っていないことなどを理由に不成功に終わった。また、岩倉らは各国の近代国家ぶりにおおいにカルチャーショックを受けた。


津田梅子(つだうめこ)
津田梅子(つだうめこ)

1864年 - 1929年

教育者。女子教育の先駆者。

岩倉使節団に最年少の満6歳で随行し、渡米。アメリカで十年余りを過ごす(アメリカ留学)。帰国後、再度留学の後、1900年に女子英学塾(後の津田塾)を設立した。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
西郷隆盛(さいごうたかもり)

1828年 - 1877年

武士(薩摩藩士)。軍人。政治家。

岩倉使節団が派遣されている間、留守政府(日本で留守番をしている政府)を運営した。


板垣退助(いたがきたいすけ)
板垣退助(いたがきたいすけ)

1837年 - 1919年

武士(土佐藩士)。政治家。

岩倉使節団が派遣されている間、留守政府(日本で留守番をしている政府)を運営した。

富岡製糸場(とみおかせいしじょう)
富岡製糸場(とみおかせいしじょう)

明治5年(1872年)に明治政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場。

参考
富岡製糸場 | しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ


ブリューナ
ブリューナ

1840年 - 1908年

フランス人の生糸技術者。

正式な名前はポール・ブリューナ。

お雇い外国人として富岡製糸場の設立に携わった。

最初の官営鉄道(さいしょのかんえいてつどう)
最初の官営鉄道(さいしょのかんえいてつどう)

1872年

日本最初の官営鉄道が新橋、横浜間で正式開業した。


中村正直(なかむらまさなお)
中村正直(なかむらまさなお)

1832年 - 1891年

啓蒙思想家。教育者。文学博士。

『西国立志編』や『自由之理』などの訳書で有名。特に『西国立志編』は福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。

福沢諭吉(ふくざわゆきち)
福沢諭吉(ふくざわゆきち)

1835年 - 1901年

武士。蘭学者。著述家。啓蒙思想家。教育者。

慶応義塾の創設者として有名。著書に『西洋事情』『学問のすゝめ』など。


学制(がくせい)
学制(がくせい)

1872年に発された日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。国民皆学をめざし、女子も小学校に就学させることとした。

学制交付直後の女子の就学率(がくせいこうふちょくごのじょしのしゅうがくりつ)
学制交付直後の女子の就学率(がくせいこうふちょくごのじょしのしゅうがくりつ)

学制交付直後、女子の就学率は男子の半分にも満たなかった。


大久保利通(おおくぼとしみち)
大久保利通(おおくぼとしみち)

1830年 - 1878年

武士(薩摩藩士)。政治家。

1873年に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。また「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進した。

殖産興業(しょくさんこうぎょう)
殖産興業(しょくさんこうぎょう)

明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策。


富国強兵(ふこくきょうへい)
富国強兵(ふこくきょうへい)

明治政府は自立した近代国家を作るために西洋の技術を導入し、殖産興業を推進した。この「国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策」のことを富国強兵という。

徴兵令(ちょうへいれい)
徴兵令(ちょうへいれい)

国民の兵役義務を定めた法令のこと。明治5年(1872年)に「こんな感じの徴兵制度を作るよ」って発表する(徴兵告諭)。1873年に徴兵令が執行された。


血税一揆(けつぜいいっき)
血税一揆(けつぜいいっき)

おもに1873年に施行された徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた一揆。この一揆はその後鎮圧された。

寺島宗則(てらしまむねのり)
寺島宗則(てらしまむねのり)

1832年 - 1893年

政治家。

1873年、参議兼外務卿となると、政府の財政難から関税自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスなどの反対で失敗した。


岩崎弥太郎(いわさきやたろう)
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)

1835年 - 1885年

三菱財閥の創業者で初代総帥。

政商として活躍し、郵便汽船三菱会社を経営するなど海運業で巨利を得て、のちの三菱財閥の基礎を確立した。

森有礼(もりありのり)
森有礼(もりありのり)

1847年 - 1889年

武士(薩摩藩士)。外交官。政治家。のちの初代文部大臣。

1873年に福沢諭吉らとともに明六社(めいろくしゃ)を設立した。これは、日本最初の近代的啓蒙学術団体である。


福沢諭吉(ふくざわゆきち)
福沢諭吉(ふくざわゆきち)

1835年 - 1901年

武士。蘭学者。著述家。啓蒙思想家。教育者。

1873年に森有礼らとともに明六社(めいろくしゃ)を設立した。これは、日本最初の近代的啓蒙学術団体である。

明六雑誌(めいろくざっし)
明六雑誌(めいろくざっし)

明六社の機関紙。1874年創刊、1875年停刊。全43号。

近代日本における学術総合雑誌、学会誌の先駆けとなり、西洋の文明が日本に入ってきて制度や習慣が大きく変化していた時期である文明開化時期の日本に大きな影響を与えた。福沢諭吉も著者として参加してた。


板垣退助(いたがきたいすけ)
板垣退助(いたがきたいすけ)

1837年 - 1919年

武士(土佐藩士)。政治家。

征韓論に敗れて下野していた板垣退助らが、1874年に専制政府を批判し、国会の開設を求めて政府に民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)という意見書を提出した。自由民権運動の端緒となった。

日新真事誌(にっしんしんじし)
日新真事誌(にっしんしんじし)

イギリス人のジョン・レディ・ブラックが1872年に創刊した日本語の新聞。

1874年に板垣退助らの民撰議院設立建白書をいち早く掲載し、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。


江藤新平(えとうしんぺい)
江藤新平(えとうしんぺい)

1834年 - 1874年

幕末の佐賀藩士、明治時代の政治家。

1874年に不平士族を率いて佐賀の乱を起こすが鎮圧された。

大久保利通(おおくぼとしみち)
大久保利通(おおくぼとしみち)

1830年 - 1878年

武士(薩摩藩士)、政治家。

1875年に今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任などの案件について協議した大阪会議に参加した。


木戸孝允(きどたかよし)
木戸孝允(きどたかよし)

1833年 - 1877年

武士(長州藩士)、政治家。

1875年に今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任などの案件について協議した大阪会議に参加した。

板垣退助(いたがきたいすけ)
板垣退助(いたがきたいすけ)

1837年 - 1919年

武士(土佐藩士)、政治家。

1875年に今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任などの案件について協議した大阪会議に参加した。


大阪会議(おおさかかいぎ)
大阪会議(おおさかかいぎ)

1875年

明治政府の要人である大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針および参議就任などの案件について協議した会議。漸進的に立憲政治を確立するという基本方針を決定した。その結果、1875年に「漸次立憲政体樹立の詔」が発布され、元老院・大審院を設置し、地方官会議が招集されることになった。

クラーク
クラーク

1826年 - 1886年

アメリカ合衆国の教育者。

正式名ウィリアム・スミス・クラーク。クラーク博士として知られる。

1876年に札幌農学校開校。初代教頭。「少年よ、大志を抱け」の言葉が有名。


ベルツ
ベルツ

1849年 - 1913年

ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人。本名エルヴィン・フォン・ベルツ。

27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。日本での滞在は29年に及ぶ。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
西郷隆盛(さいごうたかもり)

1828年 - 1877年

討幕活動で活躍し、倒幕後に政治家になった人。1877年に不平士族を率いて鹿児島で西南戦争を起こすが鎮圧された。西郷は城山で自刃した。日本国内で最後の内戦。


西南戦争(せいなんせんそう)
西南戦争(せいなんせんそう)

1877年

現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族の武力反乱。日本国内最後の内戦。明治政府側が勝利した。

古河市兵衛(ふるかわいちべえ)
古河市兵衛(ふるかわいちべえ)

1832年 - 1903年

実業家。古河財閥の創業者。

1877年に栃木県の足尾銅山を取得した後、秋田県の院内銀山や阿仁銅山の払い下げも受けるなど、多くの鉱山を経営したことから鉱山王と称され、のちの「古河財閥」の基礎を築いた。


モース
モース

1838年 - 1925年

アメリカの動物学者。本名エドワード・シルヴェスター・モース。

標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。1877年に大森貝塚を発掘したことで有名。

高橋由一(たかはしゆいち)
高橋由一(たかはしゆいち)

1828年 - 1894年

洋画家。

近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の洋画家と言われる。代表作は1877年に作成した「鮭」で重要文化財になっている。


大久保利通(おおくぼとしみち)
大久保利通(おおくぼとしみち)

1830年 - 1878年

武士(薩摩藩士)。政治家。

1878年5月14日に不平士族6名によって暗殺された(紀尾井坂の変)。

郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう)
郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう)

1878年

都市部を区、その他を郡とし、その下に町村をおく郡区町村編制法を施行した。


ボアソナード
ボアソナード

1825年 - 1910年

フランスの法学者。教育者。本名ギュスターヴ・エミール・ボアソナード。

明治政府に請われて1873年に来日。刑事法や民事法の起草を行った。「日本近代法の父」と呼ばれる。起草した民事法に関しては論争(民法典論争)の末、結局施行されなかったが、現行民法にその影響がみられる。

穂積八束(ほづみやつか)
穂積八束(ほづみやつか)

1860年 - 1912年

法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。

ボアソナードが起草にかかわった民法を批判した。民法の施工を延期するか断行するかをめぐる論争(民法典論争)に際しては論文『民法出デテ忠孝亡ブ』を発表したことで有名。


伊藤博文(いとうひろぶみ)
伊藤博文(いとうひろぶみ)

1841年 - 1909年

武士(長州藩士)。政治家。

大久保利通亡き後、明治維新を主導した「薩摩、長州、土佐、肥前」が中心となって政治を行う藩閥政治を批判する自由民権運動が盛んになっていた。国会開設運動が興隆するなかで、いつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。伊藤博文は移行に対して『漸進派』の立場をとり、また憲法制定に関しては君主大権を残す『ビスマルク憲法』を参考にすべしと主張。『急進派』『イギリス型の議院内閣制』を主張する大隈重信と対立した。

大隈重信(おおくましげのぶ)
大隈重信(おおくましげのぶ)

1838年 - 1922年

武士(佐賀藩士)。政治家。教育者。

大久保利通亡き後、明治維新を主導した「薩摩、長州、土佐、肥前」が中心となって政治を行う藩閥政治を批判する自由民権運動が盛んになっていた。国会開設運動が興隆するなかで、いつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。大隈重信は移行に対して『急進派』の立場をとり、また憲法制定に関しては『イギリス型の議院内閣制』を参考にすべしと主張。『漸進派』『ビスマルク憲法』を主張する伊藤博文と対立した。


黒田清隆(くろだきよたか)
黒田清隆(くろだきよたか)

1840年 - 1900年

武士(薩摩藩士)。陸軍軍人。政治家。

1881年に、当時北海道開拓使長官だった黒田清隆が開拓使官有物を同じ薩摩出身である政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払い下げは中止となった(開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん))。明治十四年の政変のきっかけとなった。

五代友厚(ごだいともあつ)
五代友厚(ごだいともあつ)

1836年 - 1885年

武士(薩摩藩士)。実業家。

1881年に、当時北海道開拓使長官だった黒田清隆が開拓使官有物を同じ薩摩出身である政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払い下げは中止となった(開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん))。明治十四年の政変のきっかけとなった。


大隈重信(おおくましげのぶ)
大隈重信(おおくましげのぶ)

1838年 - 1922年

武士(佐賀藩士)。政治家。教育者。

開拓使官有物払下げにより、政府への強い批判が起こり、それまであった自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。大隈派も黒田の払い下げが不当に廉価であり中止すべきと公然と主張した。

伊藤博文(いとうひろぶみ)
伊藤博文(いとうひろぶみ)

1841年 - 1909年

武士(長州藩士)。政治家。

自由民権派に味方した大隈重信に対して「反政府陰謀である」とし、1881年、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。天皇が行幸から帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て、翌日国会開設の詔などが公表された。また大隈邸を伊藤が訪れて辞表提出を促し、大隈は了承した。


明治天皇(めいじてんのう)
明治天皇(めいじてんのう)

1852年 - 1912年

第122代天皇(在位:1867年 - 1912年)。

1881年に国会開設の詔を出した。内容は1890年(明治23年)を期して議員を召して国会を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明するものであり、議会創設の時期を明示して自由民権運動の鎮静化を図るものであった。

明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)
明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)

1881年

自由民権運動の流れの中、憲法制定に関して『ビスマルク憲法』を参考にすべしという伊藤博文と『イギリス型の議院内閣制』を参考にすべしという大隈重信が争い、大隈重信が追放された事件。

以下一連の出来事をもって

  • 開拓使官有物払い下げの中止
  • 10年後の国会開設の公約
  • 参議大隈重信一派の追放

明治十四年の政変という。


大隈重信(おおくましげのぶ)
大隈重信(おおくましげのぶ)

1838年 - 1922年

明治十四年の政変により野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、1882年に小野梓とともに立憲改進党を結成した。

立憲改進党(りっけんかいしんとう)
立憲改進党(りっけんかいしんとう)

1882年 - 1896年

明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ。

明治十四年の政変によって追放された大隈重信が1882年に結党した。


松方正義(まつかたまさよし)
松方正義(まつかたまさよし)

1835年 - 1924年

松方正義が大蔵卿の時の1882年に中央銀行として日本銀行を設立した。

インフレ対策として行った数々のデフレ政策は「松方デフレ」とも呼ばれ農村の窮乏を招いた。一部の農民は経済困窮から自由党による激化事件に参加し、反政府的な暴動を起こすようになった。

日本銀行(にほんぎんこう)
日本銀行(にほんぎんこう)

松方正義が大蔵卿の時の1882年に中央銀行として日本銀行を設立した。1885年にと兌換できる日本銀行券を発行し始めた。


福島事件(ふくしまじけん)
福島事件(ふくしまじけん)

1882年

自由民権運動の中で1882年(明治15年)、県令三島通庸が会津三方道路工事事業に反対する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件。民権激化事件の一つ。

シュタイン
シュタイン

1815年 - 1890年

ドイツの法学者。思想家。本名ローレンツ・フォン・シュタイン。

1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文に、プロイセン(ドイツ)式の憲法を勧めた。伊藤にドイツ式を選択させた背景にはシュタインの存在が大きい。


井上馨(いのうえかおる)
井上馨(いのうえかおる)

1836年 - 1915年

武士(長州藩士)。政治家。実業家。

不平等条約改正のために文明国であることを示すため、欧化政策を推進して鹿鳴館を建設した。

鹿鳴館(ろくめいかん)
鹿鳴館(ろくめいかん)

1883年

国賓や外国の外交官を接待するため明治政府によって建てられた社交場。不平等条約改正のために日本が文明国であることを広く諸外国に示そうと考えた外務卿の井上馨の計画で建てられた。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在であった。


加波山事件(かばさんじけん)
加波山事件(かばさんじけん)

1884年

1884年(明治17年)9月23日に発生した栃木県令の三島通庸等の暗殺未遂事件。

日本郵船会社(にっぽんゆうせんがいしゃ)
日本郵船会社(にっぽんゆうせんがいしゃ)

1885年に三菱(三菱会社)と共同運輸会社が合併して設立された。


太政官制から内閣制へ(だじょうかんせいからないかくせいへ)
太政官制から内閣制へ(だじょうかんせいからないかくせいへ)

1885年

1885年12月22日に、「政体書によって設置された太政官が最高行政機関である太政官制」を廃止して「内閣総理大臣と各省大臣による内閣制」が定められ、内閣制度が始まった。

第一次伊藤博文内閣(だいいちじいとうひろぶみないかく)
第一次伊藤博文内閣(だいいちじいとうひろぶみないかく)

1885年12月22日 - 1888年4月30日

日本の最初の内閣。伊藤博文が初代内閣総理大臣。


ノルマントン号事件(のるまんとんごうじけん)
ノルマントン号事件(のるまんとんごうじけん)

1886年10月24日

イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で座礁、沈没した際、日本人乗客を見殺しにした疑いで船長の責任が問われたものの不問となり、船長らの人種差別行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。領事裁判権は8年後の1894年に撤廃された。

森有礼(もりありのり)
森有礼(もりありのり)

1847年 - 1889年

第1次伊藤博文内閣で、文部大臣として1886年に学校令の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走した。


学校令(がっこうれい)
学校令(がっこうれい)

1886年

1886年(明治19年)3月2日から4月10日にかけて公布された帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令・諸学校通則の5勅令。

運動会も1886年の学校令発布の後に学校行事として広く行われるようになった。

長崎造船所(ながさきぞうせんじょ)
長崎造船所(ながさきぞうせんじょ)

官営の長崎造船所は1887年に三菱に払い下げられて三菱長崎造船所となり、日清戦争後の造船奨励政策を背景に、欧州航路や太平洋航路に就航する大型船を建造した。その後、日本の造船技術は日露戦争後に世界水準に達した。

参考
沿革:長崎造船所 アクセス | 三菱重工


保安条例(ほあんじょうれい)
保安条例(ほあんじょうれい)

1887年

自由民権運動を弾圧するための法律で、秘密の集会や結社の禁止や自由民権派の人物が皇居周辺に住むことを禁止し、民権派を東京の中心地から追い出した。

井上円了(いのうええんりょう)
井上円了(いのうええんりょう)

1858年 - 1919年

仏教哲学者。教育者。

哲学館(現在の東洋大学)を設立。迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、「妖怪博士」などと呼ばれた。世間のなりふり構わぬ西欧化に反感を抱き、1888年に政治評論団体「政教社」を設立し、西欧化に盲進せず、西欧文化は消化した上で取り入れるべしと主張して機関紙『日本人』などを発行した。


狩野芳崖(かのうほうがい)
狩野芳崖(かのうほうがい)

1828年 - 1888年

日本画家。近代日本画の父。

代表作は1888年に描き上げた『悲母観音』。フェノロサとも親交があった。

橋本雅邦(はしもとがほう)
橋本雅邦(はしもとがほう)

1835年 - 1908年

日本画家。

狩野芳崖の親友。明治23年(1890年)の東京美術学校教授に就任。


フェノロサ
フェノロサ

1853年 - 1908年

アメリカ合衆国の東洋美術史家。哲学者。明治時代に来日したお雇い外国人。本名アーネスト・フェノロサ。

日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。

狩野芳崖とも親交があった。岡倉天心とともに東京美術学校の設立に尽力した。

黒田清隆内閣(くろだきよたかないかく)
黒田清隆内閣(くろだきよたかないかく)

1888年4月30日 - 1889年10月25日

黒田清隆が第2代内閣総理大臣に任命された内閣。1889年大日本帝国憲法を公布した。


枢密院(すうみついん)
枢密院(すうみついん)

1888年に憲法草案審議を行うために創設され、1889年に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。初代議長は伊藤博文。

国政に隠然たる権勢を誇り、政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなした。しかし1931年の満州事変以後、軍部の台頭とともにその影響力は低下。日本国憲法施行により、前日の1947年5月2日限りで廃止された。

ロエスレル
ロエスレル

1834年 - 1894年

ドイツの法学者。経済学者。本名ヘルマン・ロエスレル。明治の日本でお雇い外国人の一人として活動したドイツ人。

大日本帝国憲法の草案作成にめちゃくちゃ貢献した。大日本帝国憲法の草案は国民に極秘に進められ、1889年に黒田清隆内閣の下で発布された。


大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう)
大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう)

1889年に発布された日本の憲法。

大日本帝国憲法では天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。

二葉亭四迷(ふたばていしめい)
二葉亭四迷(ふたばていしめい)

1864年 - 1909年

小説家。「浮雲」が有名。ロシア文学の翻訳家としても知られる。


三池炭鉱(みついけたんこう)
三池炭鉱(みついけたんこう)

福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)及び熊本県荒尾市に坑口を持っていた炭鉱。江戸時代から採掘が行われてきたが、1889年、三井財閥に払下げられた。日本の近代化を支えてきた存在であったが、1997年3月30日に閉山した。

参考
三池炭鉱 万田坑 | 九州の世界遺産
三池炭鉱 宮原坑 | 九州の世界遺産

防穀令(ぼうこくれい)
防穀令(ぼうこくれい)

1889年

朝鮮で凶作予防処置として発令した穀物輸出禁止令。日本商人が打撃を受けたとして日本側は撤回と賠償を要求。その後、朝鮮側は賠償金を払った。


第1次山縣有朋内閣(だいいちじやまがたありともないかく)
第1次山縣有朋内閣(だいいちじやまがたありともないかく)

1889年12月24日 - 1891年5月6日

山縣有朋が第3代内閣総理大臣に任命された内閣。

大幅な軍事予算比増強を提案するが「民力休養・政費節減」を主張する民党の反感を買い、議会運営に自信が無いとして山縣は辞表を提出した。

青木周蔵(あおきしゅうぞう)
青木周蔵(あおきしゅうぞう)

1844年 - 1914年

外交官。政治家。

第一次山縣有朋内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた。こののち対英条約改正交渉を自ら指揮した。


森鴎外(もりおうがい)
森鴎外(もりおうがい)

1862年 - 1922年

小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚。1890年代にロマン主義が盛んとなり、鴎外も1890年に短編小説「舞姫」、1892年 - 1901年に翻訳「即興詩人」を発表した。

第1次松方正義内閣(だいいちじまつかたまさよしないかく)
第1次松方正義内閣(だいいちじまつかたまさよしないかく)

1891年5月6日 - 1892年8月8日

松方正義が第4代内閣総理大臣に任命された内閣。

大津事件などがあり閣僚が次々辞任し、最後には松方自身も辞表を提出した。


青木周蔵(あおきしゅうぞう)
青木周蔵(あおきしゅうぞう)

1844年 - 1914年

外交官。政治家。

第一次山縣有朋内閣の時に引き続き第1次松方正義内閣でも外務大臣に留任し、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。が、新条約調印寸前の1891年5月大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。

大津事件(おおつじけん)
大津事件(おおつじけん)

1891年

1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件。


内村鑑三(うちむらかんぞう)
内村鑑三(うちむらかんぞう)

1861年 - 1930年

キリスト教思想家。文学者。伝道者。聖書学者。「代表的日本人」の著者。

1891年に教育勅語への最敬礼を拒否し、職を追われた。(内村鑑三不敬事件)

文学界(ぶんがくかい)
文学界(ぶんがくかい)

1893年 - 1898年

58冊発行された、ロマン主義の月間文芸雑誌。北村透谷、島崎藤村、平田禿木、樋口一葉、上田敏、田山花袋らが書いた。


北村透谷(きたむらとうこく)
北村透谷(きたむらとうこく)

1868年 - 1894年

評論家。詩人。

近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。「文学界」の創刊に参加。

島崎藤村(しまざきとうそん)
島崎藤村(しまざきとうそん)

1872年 - 1943年

詩人。小説家。1890年代ロマン主義の文学作品が盛んになり藤村も1897年に詩集「若菜集」を発表した。


樋口一葉(ひぐちいちよう)
樋口一葉(ひぐちいちよう)

1872年 - 1896年

小説家。本名は夏子。「たけくらべ」「にごりえ」が有名。

たけくらべ
たけくらべ

1895年

樋口一葉の短編小説。

吉原に住む少女と僧侶の息子との淡い恋を中心に、東京の子供たちの生活を吉原を背景に描き出した作品。


北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)

1853年 - 1931年

医学者・細菌学者。

ペスト菌を発見し、破傷風の治療法を発見するなどし「日本の細菌学の父」として知られる。

1889年ベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功。1890年世界で初めて血清療法を発見。1894年ペストの病原菌を共同発見。

清(しん)
清(しん)

1616年 - 1912年

この頃の中国の国名。


日清戦争(にっしんせんそう)
日清戦争(にっしんせんそう)

1894年7月25日 - 1895年3月

朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争。近代化された日本軍は戦局を有利に進め、日本が勝った。

下関条約(しものせきじょうやく)
下関条約(しものせきじょうやく)

1895年

日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより下関での講和会議を経て調印された条約。主に「朝鮮国の自主独立を認めること」「遼東半島、台湾、澎湖諸島などを日本に渡すこと」「賠償金2億テールを日本に支払うこと」「日本に最恵国待遇を認めること」などがある。


三国干渉(さんごくかんしょう)
三国干渉(さんごくかんしょう)

1895年

下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還するようフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告。日本は圧力に屈して要求をのんだ(その代わり賠償額を増額した)。

進歩党(しんぽとう)
進歩党(しんぽとう)

1896年 - 1898年

明治時代中期に結成された政党。

立憲改進党、立憲革新党、大手倶楽部、帝国財政革新会、中国進歩党などが合同して結成。


第2次松方正義内閣(だいにじまつかたまさよしないかく)
第2次松方正義内閣(だいにじまつかたまさよしないかく)

1896年9月18日 - 1898年1月12日

松方正義が第6代内閣総理大臣に任命された内閣。

財政難の解決のために「地租増徴」案を松方が提案したところ、進歩党はこれに反対して倒閣の機運を生じさせ、その後松方は衆議院を解散し、内閣総辞職を行った。

志賀潔(しがきよし)
志賀潔(しがきよし)

1871年 - 1957年

医学者。細菌学者。

1897年に赤痢菌を発見。


黒田清輝(くろだせいき)
黒田清輝(くろだせいき)

1866年 - 1924年

洋画家。政治家。

本名は「きよてる」だが、画名は「せいき」と読む。1896年に日本の洋画団体である白馬会を設立した。代表作は1897年に発表した『智・感・情』と『湖畔』。

高野房太郎(たかのふさたろう)
高野房太郎(たかのふさたろう)

1869年 - 1904年

労働組合運動の先駆者。社会科学者。

1897年に片山潜らと労働組合期成会を結成した。日本最初の労働機関紙である「労働世界」も創刊した。しかし、労働組合主義を唱える高野は、社会主義に傾斜した片山潜らと次第に対立した。


尾崎紅葉(おざきこうよう)
尾崎紅葉(おざきこうよう)

1868年 - 1903年

小説家。

1897年から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。

金色夜叉(こんじきやしゃ)
金色夜叉(こんじきやしゃ)

1897年から1902年まで連載された、尾崎紅葉が描いた明治時代の代表的な小説。執筆中に紅葉が亡くなったため、未完である。


第3次伊藤博文内閣(だいさんじいとうひろぶみないかく)
第3次伊藤博文内閣(だいさんじいとうひろぶみないかく)

1898年1月12日 - 1898年6月30日

伊藤博文が第7代内閣総理大臣として就任した内閣。

「地租増徴」を目指して衆議院を解散したものの、政局運営に自信を失った松方正義に代わって伊藤が組閣した。

地租増徴案を出すものの進歩党と自由党に反対され否決されると衆議院を解散し、その後内閣を総辞職した。

憲政党(けんせいとう)
憲政党(けんせいとう)

1898年 - 1900年

政府が提出した地租増徴案に反対して、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成した。


第1次大隈重信内閣(だいいちじおおくましげのぶないかく)
第1次大隈重信内閣(だいいちじおおくましげのぶないかく)

1898年6月30日 - 1898年11月8日

大隈重信が第8代内閣総理大臣として就任した内閣。

尾崎行雄(おざきゆきお)
尾崎行雄(おざきゆきお)

1858年 - 1954年

第1次大隈重信内閣の文部大臣。1898年8月21日に「世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない。」と演説したところ、なぜか「不敬の言」と曲解され、内閣瓦解のきっかけになった(共和演説事件)。


横山源之助(よこやまげんのすけ)
横山源之助(よこやまげんのすけ)

1871年 - 1915年

ジャーナリスト。1899年、『日本之下層社会』、『内地雑居後之日本』を相次いで刊行。

第2次山縣有朋内閣(だいにじやまがたありともないかく)
第2次山縣有朋内閣(だいにじやまがたありともないかく)

1898年11月8日 - 1900年10月19日

山縣有朋が第9代内閣総理大臣として内閣を率いた。1899年、商人の営業、商行為その他商事について定めた商法を制定した。1900年、治安警察法を制定し、労働運動・農民運動・社会運動などへの取り締まりを強化した。現役の武官(軍人)しか軍部大臣になれないとする軍部大臣現役武官制を定めた。


北清事変(ほくしんじへん)
北清事変(ほくしんじへん)

1900年

義和団の乱ともいわれる、中国の清朝末期の動乱。当初は秘密結社「義和団」の中国での排外運動であったが、清の西太后がこの反乱を支持し、欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となったが、清が負けた。

津田梅子(つだうめこ)
津田梅子(つだうめこ)

1864年 - 1929年

教育者。女子教育の先駆者。

岩倉使節団に最年少の満6歳で随行し、渡米。アメリカで十年余りを過ごす(アメリカ留学)。帰国後、再度留学の後、1900年に女子英学塾(後の津田塾)を設立した。


産業組合(さんぎょうくみあい)
産業組合(さんぎょうくみあい)

1900年に公布された産業組合法によって設立された協同組合のこと。農村組合として組織されることが多く、農家経営を保護するための協同組合として機能した。

新渡戸稲造(にとべいなぞう)
新渡戸稲造(にとべいなぞう)

1862年 - 1933年

日本の教育者・思想家。1900年に初版を刊行した「武士道」が有名。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。1920年の国際連盟設立に際しては事務次長の一人に選ばれた。


八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)
八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)

福岡県北九州市にある製鉄所。筑豊炭田(ちくほうたんでん)で採掘した石炭を燃料として用い、中国湖北省黄石市にある大冶鉄鉱(だいやてっこう)という鉄山から安価で大量に入手した鉄鉱石を原料として1901年2月5日から鉄鋼の生産を始めた。

安部磯雄(あべいそお)
安部磯雄(あべいそお)

1865年 - 1949年

社会主義者。

1901年5月18日に日本最初の社会主義政党である社会民主党を片山潜、幸徳秋水らとともに結成するが、直後に解散させられる。野球が得意。


片山潜(かたやません)
片山潜(かたやません)

1859年 - 1933年

労働運動家・社会主義者として活躍。1901年日本で最初の社会主義政党である社会民主党に入党。1906年に日本社会党結党に参加。1914年アメリカへ亡命。1921年ソビエト連邦に渡りコミンテルン常任執行委員会幹部となる。1933年11月5日敗血症のためモスクワで死去。葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まった。

第1次桂太郎内閣(だいいちじかつらたろうないかく)
第1次桂太郎内閣(だいいちじかつらたろうないかく)

1901年6月2日 - 1906年1月7日

桂太郎が第11代内閣総理大臣として就任した内閣。


北京議定書(ぺきんぎていしょ)
北京議定書(ぺきんぎていしょ)

1901年9月7日

北京で調印された北清事変における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。

国定教科書(こくていきょうかしょ)
国定教科書(こくていきょうかしょ)

1902年に教科書採用を巡る贈収賄事件が起き(教科書疑獄事件)、1903年から小学校では教科書は国定性(国定教科書制度)となった。


長岡半太郎(ながおかはんたろう)
長岡半太郎(ながおかはんたろう)

1865年 - 1950年

物理学者。

1903年に発表した土星型原子模型の理論が特に有名。初代大阪帝国大学総長や帝国学士院院長などの要職も歴任。

青木繁(あおきしげる)
青木繁(あおきしげる)

1882年 - 1911年

洋画家。

明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、1904年に作成した代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。


第1次西園寺公望内閣(だいいちじさいおんじきんもちないかく)
第1次西園寺公望内閣(だいいちじさいおんじきんもちないかく)

1906年1月7日 - 1908年7月14日

西園寺公望が第12代内閣総理大臣に任命された内閣。

1906年に鉄道国有法を制定し、主要幹線の民営鉄道の国有化を図った。

日本社会党(にほんしゃかいとう)
日本社会党(にほんしゃかいとう)

1906年 - 1907年

日本最初の合法社会主義政党。政府はこれをいったん認めたが、後に解散を命じた。


黒岩涙香(くろいわるいこう)
黒岩涙香(くろいわるいこう)

1862年 - 1920年

作家、思想家、ジャーナリスト。1892年に「萬朝報(よろずちょうほう)」という日刊新聞を創刊し、日露戦争では最初は非戦論を唱えていたものの、のちに開戦論に転じた。

与謝野晶子(よさのあきこ)
与謝野晶子(よさのあきこ)

1878年 - 1942年

歌人。作家。思想家。

1904年「君死にたまふことなかれ」を機関紙『明星』に発表。


日露戦争(にちろせんそう)
日露戦争(にちろせんそう)

1904年2月8日 - 1905年9月5日

大日本帝国とロシア帝国との間で起こった戦争。ロシアは南下政策で満州と朝鮮半島の利権を得たかったが、日本はロシアの脅威を防ぎたかった。日本が勝利し、日本の朝鮮半島の権益確保も決まった。

旅順(りょじゅん)
旅順(りょじゅん)

日露戦争の激戦地。日本が攻略した。


ポーツマス条約(ぽーつますじょうやく)
ポーツマス条約(ぽーつますじょうやく)

1905年

アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、大日本帝国とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲したが、ロシア側は「その気になればロシアは継戦可能」と主張し、戦争賠償金には応じなかった。

日露戦争後の就学率(にちろせんそうごのしゅうがくりつ)
日露戦争後の就学率(にちろせんそうごのしゅうがくりつ)

日露戦争後、義務教育の就学率は95%を上回った。


関東都督府(かんとうととくふ)
関東都督府(かんとうととくふ)

大日本帝国時代の日本の機関。遼東半島先端部の関東州を統治する任務を帯び、旅順に置かれた。

韓国統監府(かんこくとうかんふ)
韓国統監府(かんこくとうかんふ)

1905年

第2次日韓協約によって韓国を保護国とした日本がその保護権を行使するために作った支配機構。初代統監は伊藤博文


伊藤博文(いとうひろぶみ)
伊藤博文(いとうひろぶみ)

1841年 - 1909年

日露戦争後、大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が漢城に韓国統監府(かんこくとうかんふ)を設置し、伊藤博文は初代統監になった。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した。1909年に安重根に暗殺された。

ハーグ密使事件(はーぐみっしじけん)
ハーグ密使事件(はーぐみっしじけん)

1907年

大韓帝国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送り、第二次日韓協約によって奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも具体的成果は得られなかった事件。事件後、伊藤博文によって高宗は退位させられた。


第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)
第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)

1907年

ハーグ密使事件を受けて高宗を退位させた後、この条約を締結して日本は韓国の内政権を掌握し、軍隊を解散させた。

安重根(あんじゅうこん)
安重根(あんじゅうこん)

1879年 - 1910年

朝鮮の独立運動家。日本の朝鮮の支配を象徴する韓国統監府の伊藤博文を暗殺した。


第2次桂太郎内閣(だいにじかつらたろうないかく)
第2次桂太郎内閣(だいにじかつらたろうないかく)

1908年7月14日 - 1911年8月30日

桂太郎が第13代内閣総理大臣として就任した内閣。1911年に工場労働者の保護を目的とした工場法を制定した。大逆事件を契機に社会主義者を弾圧した。

朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)
朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)

1910年

韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するために設置された官庁。韓国統監府を前身とする。初代総督は寺内正毅


寺内正毅(てらうちまさたけ)
寺内正毅(てらうちまさたけ)

1852年 - 1919年

朝鮮総督府の初代総督。後に第18代内閣総理大臣になる人。

幸徳事件(こうとくじけん)
幸徳事件(こうとくじけん)

1910年

明治天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や禁固刑判決を下した事件。大逆事件といえば、一般的にこの事件のことをさす。

政府はこれにかこつけて、計画に加担していない社会主義者も合わせて逮捕・処刑したため、国内外で知識人層の中から批判があった。


野口英世(のぐちひでよ)
野口英世(のぐちひでよ)

1876年 - 1928年

医師。細菌学者。

ほぼ独学のみで医術開業試験に合格して医師となる。研究者として名声を得てからロックフェラー医学研究所研究員となった。黄熱病や梅毒の研究で知られる。

1911年「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られる(ただし、追試に成功した者がおらず、現代では成功は否定されている)。1918年からロックフェラー財団の意向を受けて黄熱病の研究を始め、その後亡くなるまで黄熱病と戦い続けた。

孫文(そんぶん)
孫文(そんぶん)

1866年 - 1925年

中国の政治家・革命家。1911年から1912年にかけて清で発生した辛亥革命の最中、中華民国臨時政府の臨時大総統となるが、その後、軍閥の袁世凱が台頭し、孫文は辞任、袁世凱が二代目臨時大総統となる。


中華民国(ちゅうかみんこく)
中華民国(ちゅうかみんこく)

1912年~

1911年12月29日、上海で孫文が中華民国大総統に選出され、1912年2月12日に清国最後の皇帝溥儀が退位し、清国は滅亡した。中華民国は1912年1月1日に建国宣言をした。

袁世凱(えんせいがい)
袁世凱(えんせいがい)

1859年 - 1916年

中国の軍人・政治家。清朝崩壊後、第2代中華民国臨時大総統。その後、インフラ整備したり反乱を鎮圧したり頑張ったけど批判が強まり失脚後、病死した。袁世凱の死後、中国は軍閥割拠となり、動乱の時代が続いた。


第2次西園寺公望内閣(だいにじさいおんじきんもちないかく)
第2次西園寺公望内閣(だいにじさいおんじきんもちないかく)

1911年8月30日 - 1912年12月21日

西園寺公望が第14代内閣総理大臣に任命された内閣。この頃、世の中で「倒幕で活躍した人ばっかり首相になったり政治に力を持ってない?もっと民主的な政治がしたい」という動きが台頭してきていた。1912年陸軍大臣だった上原勇作が二個師団増設を提言したが、西園寺は財政難を理由に拒否。すると上原は単独で陸相を辞任してしまう。当時は軍部大臣現役武官制で現役の大将・中将しか陸海軍大臣になれなかった。この規定により、後任の陸相を据えることができなかった西園寺は内閣総辞職を余儀なくされた。

オリンピック日本初参加(おりんぴっくにほんはつさんか)
オリンピック日本初参加(おりんぴっくにほんはつさんか)

1912年にストックホルムで行われた第五回オリンピックに日本は初めて参加した。