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絵の並びについては、上の方が古い出来事で、下に行くほど新しい出来事です。

江戸時代(1603年 - 1868年)

徳川家康(とくがわいえやす)
徳川家康(とくがわいえやす)

1543年 - 1616年

征夷大将軍に就くと、自領である江戸に幕府を開き、江戸幕府が誕生した。江戸幕府初代征夷大将軍(在職:1603年 - 1605年)。

江戸時代(えどじだい)
江戸時代(えどじだい)

1603年 - 1868年

徳川将軍家が日本を統治していた時代。この時代の徳川将軍家による政府は江戸幕府と呼ぶ。


親藩(しんぱん)
親藩(しんぱん)

江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。

譜代大名(ふだいだいみょう)
譜代大名(ふだいだいみょう)

関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えた者。譜代大名に老中の職を独占させた。


外様大名(とざまだいみょう)
外様大名(とざまだいみょう)

関ヶ原の戦い以後に徳川氏に仕えた者。

キリシタン版(きりしたんばん)
キリシタン版(きりしたんばん)

イエズス会が西洋印刷術によって刊行した印刷物の総称。


国絵図(くにえず)
国絵図(くにえず)

江戸幕府が各国の大名に作らせた絵地図。

村法(そんぽう)
村法(そんぽう)

各村落の自治法。村定(むらさだめ)や村掟(むらおきて)とも言われる。これに基づいて追放や村八分などが行われた。


継飛脚(つぎびきゃく)
継飛脚(つぎびきゃく)

幕府が直接に運営した飛脚。飛脚とは江戸時代の配達人のことで、手紙、金銭、小貨物を送り届けた、

大名飛脚(だいみょうびきゃく)
大名飛脚(だいみょうびきゃく)

諸大名が藩と江戸の藩邸との間の連絡に用いた飛脚。飛脚とは江戸時代の配達人のことで、手紙、金銭、小貨物を送り届けた、


町飛脚(まちびきゃく)
町飛脚(まちびきゃく)

江戸、大坂、京都の3都を中心に民間で行われた飛脚。飛脚とは江戸時代の配達人のことで、手紙、金銭、小貨物を送り届けた、

町政(ちょうせい)
町政(ちょうせい)

町の自治行政のこと。江戸時代、地主と家持(家主)は町政の運営に参加できたが、地借・店借・借家などは町政に参加できなかった。


御蔭参り(おかげまいり)
御蔭参り(おかげまいり)

江戸時代、伊勢神宮へ参詣に行くことを御蔭参りと言った。

朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)
朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)

海外渡航許可の朱印状をもつ朱印船によって行われた東南アジアとの間で行われた貿易。豊臣秀吉の時代に本格的に実施され、徳川家康がさらに積極的に海外貿易を推進した。


末次平蔵(すえつぐへいぞう)
末次平蔵(すえつぐへいぞう)

1546年? - 1630年

博多貿易商人・長崎代官。

朱印船貿易家として活躍。

角倉了以(すみのくらりょうい)
角倉了以(すみのくらりょうい)

1554年 - 1614年

京都の豪商。朱印船貿易家として活躍。富士川や賀茂川などの整備に関わった。


己酉約条(きゆうやくじょう)
己酉約条(きゆうやくじょう)

1609年

対馬の宗氏と李氏朝鮮の間で結ばれた条約。これにより、文禄・慶長の役以来断絶していた朝鮮との貿易が再開された。

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)
朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)

李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団。


倭館(わかん)
倭館(わかん)

釜山におかれた日本人居留地。ここで日本と朝鮮との外交、通商を行った。

琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)
琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)

1609年

薩摩藩が琉球王国(現在の沖縄)に侵攻し、これを配下に収めた。


島津家久(しまづいえひさ)
島津家久(しまづいえひさ)

1576年 - 1638年

安土桃山時代の武将。江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。同名の叔父が存在するため、区別のために初名の島津忠恒(しまづただつね)と呼ばれることが多い。

1609年、琉球に侵攻した。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)

1429年 - 1879年

東南アジア・東アジア諸地域での中継貿易によって繁栄した。1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。


謝恩使(しゃおんし)
謝恩使(しゃおんし)

琉球国王即位の際に江戸幕府へ派遣された琉球王国の使節。

平戸(ひらど)
平戸(ひらど)

長崎県北西部の平戸島とその周辺を行政区域とする市。1609年にオランダが商館を設置。1613年にイギリスが商館を設置。

参考
ひと(HITO) 響きあう宝島 平戸 | 長崎県平戸市


禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

1615年

江戸幕府が天皇および公家に対する関係を確立するために定めた制定法。徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた。この法度により、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定することとなった。

武家諸法度(ぶけしょはっと)
武家諸法度(ぶけしょはっと)

1615年に発布されたが、徳川吉宗による1717年の享保令まで改定が重ねられた。

江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。諸大名にその遵守を命じた。しばしば武家諸法度違反が大名の改易に用いられた。


後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)

1596年 - 1680年

第108代天皇(在位:1611年 - 1629年)

古くから朝廷から高徳の僧・尼へ紫色の衣を賜る風習があった。幕府は禁中並家諸法度を定めてみだりに紫の衣を授けることを禁じたが、後水尾天皇が従来の慣習通り紫の衣を賜ったところ、1627年に幕府は法度違反とみなし紫衣着用の勅許の無効を宣言し、紫衣を取り上げ、関係者の一部を流罪とした。これにより江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。この事件を紫衣事件(しえじけん)という。

有田焼(ありたやき)
有田焼(ありたやき)

佐賀藩(肥前藩)の保護のもとに生産された磁器。1616年(元和2年)(1604年説あり)に李参平が有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたのが有田焼の始まりとされる。


徳川家光(とくがわいえみつ)
徳川家光(とくがわいえみつ)

1604年 - 1651年

江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。

1635年の武家諸法度の改正で参勤交代を制度化した。

吉田光由(よしだみつよし)
吉田光由(よしだみつよし)

1598年 - 1673年

和算家。

1628年に『塵劫記』を出版した。


塵劫記(じんこうき)
塵劫記(じんこうき)

1627年

吉田光由が執筆した算術書。

命数法や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を身近な話題をもとに解説し、これ一冊で当時の日常生活に必要な算術全般をほぼ網羅できる内容となっている。ベストセラーかつロングセラーとなった。

本末制度(ほんまつせいど)
本末制度(ほんまつせいど)

江戸幕府が全国の仏教諸寺院を、重層的な本山・末寺(本山の支配下にある寺院)の関係に置くことで、その宗派に対する統制をはかった制度。1631年、江戸幕府は新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に対して「末寺帳」の提出を義務づけた。これによって、各地方の古い寺が幕府の命によって、形式的に特定の宗派に編入されることとなった。


大目付(おおめつけ)
大目付(おおめつけ)

江戸幕府は大名を監察する役職として大目付を置いた。初代の大目付は1632年に選出された。

参勤交代(さんきんこうたい)
参勤交代(さんきんこうたい)

各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令。1635年に徳川家光によって制度化された。


寺請制度(てらうけせいど)
寺請制度(てらうけせいど)

仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請けることを義務付けた制度。邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙ったもの。

寺請制度が制度として全国的に施行されるようになるのは1635年に武家諸法度を改正してからであり、寺請制度が完成するのは1671年に宗門人別改帳が法整備されてからである。

天草四郎(あまくさしろう)
天草四郎(あまくさしろう)

1621年/1623年? - 1638年

カリスマ性のあるキリスト教徒。島原の乱では、その人気を背景に総大将にかつぎあげられたが、乱は鎮圧され、天草も討ち取られた。四郎ってことは四男だろうか?


島原の乱(しまばらのらん)
島原の乱(しまばらのらん)

1637年 - 1638年

日本史上最大規模の一揆。「島原・天草の乱」「島原・天草一揆」とも呼ばれる。反乱の直接的な原因は年貢の取りすぎにあるが、キリシタンの弾圧に不満を持っていた人を一揆の仲間にするために天草四郎を反乱のリーダーとしたこと、および、この乱を鎮圧後、これを口実に幕府はキリシタンの弾圧を強めたため、一般的にはキリシタンの反乱として有名。

鎖国(さこく)
鎖国(さこく)

1639年 - 1854年

江戸幕府が日本と海外との交易を朝鮮王朝、琉球王国、中国、オランダのみに絞り、外交的にある程度孤立した政策、および状態のこと。直接の理由は、海外から来た宣教師によるキリスト教布教への警戒(島原の乱もあったし)であるが、間接的には輸入超過による貿易赤字をある程度統制したかった意図もあるとされている。1854年の日米和親条約により鎖国状態が終わった。


寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)
寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)

1640年から1643年にかけて起こった飢饉。

田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)
田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)

1643年に江戸幕府によって出された法令の総称。田畑の売買を禁止した。

前年に最大規模化した寛永の大飢饉を契機に、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で発布した。


隠元隆琦(いんげんりゅうき)
隠元隆琦(いんげんりゅうき)

1592年 - 1673年

明末の禅宗の僧。1654年に来日し、黄檗宗(おうばくしゅう)を伝え、宇治に萬福寺を開山。また、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。

参考
黄檗宗大本山萬福寺‐京都府宇治市

住吉如慶(すみよしじょけい)
住吉如慶(すみよしじょけい)

1599年 - 1670年

大和絵の絵師。江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖。


諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)
諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)

1665年

江戸幕府が制定した神社を統制するための法令。

菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)

1618年 - 1694年

浮世絵を確立した人物。「見返り美人図」が有名。


熊沢蕃山(くまざわばんざん)
熊沢蕃山(くまざわばんざん)

1619年 - 1691年

江戸時代初期の陽明学者。著作に「集義和書」「集義外書」「大学或問」など。

野々村仁清(ののむらにんせい)
野々村仁清(ののむらにんせい)

生没年不詳

陶工。色絵藤花文茶壺(いろえふじはなもんちゃつぼ:江戸時代の陶磁器の名称)をたくさん作った。


井原西鶴(いはらさいかく)
井原西鶴(いはらさいかく)

1642年 - 1693年

大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」などが有名。

住吉具慶(すみよしぐけい)
住吉具慶(すみよしぐけい)

1631年 - 1705年

住吉如慶の長男で住吉派の二代目。江戸前期を代表する大和絵氏のひとり。


大坂屋伊兵衛(おおさかやいへえ)
大坂屋伊兵衛(おおさかやいへえ)

? - 1718年

問屋商人。十組問屋(とくみどんや)という荷受け問屋の組合を江戸で結成し、江戸-大坂間の海路輸送で起きる荷主と船主のもめごとの処理にあたらせた。

二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)
二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)

江戸の十組問屋の成立に呼応して大坂で成立した積み荷問屋の組合。十組問屋と結んで大坂から江戸へ詰みだす荷物を独占的に取り扱った。


北前船(きたまえぶね)
北前船(きたまえぶね)

江戸時代から明治時代にかけて日本海開運で活躍した船の名称。西廻り航路の通称でも知られ、航路はのちに蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長され、ニシンや昆布などを上方に運んだ。

近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

1653年 - 1725年

浄瑠璃および歌舞伎の作者。『曽根崎心中』『心中天網島』『国性爺合戦』などが有名。


尾形光琳(おがたこうりん)
尾形光琳(おがたこうりん)

1658年 - 1716年

画家、工芸家。代表作として「八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」など。

宮崎友禅(みやざきゆうぜん)
宮崎友禅(みやざきゆうぜん)

1654年 - 1736年

京都で活躍した扇絵師。デザイナー。友禅染を開発する。


徳川家宣(とくがわいえのぶ)
徳川家宣(とくがわいえのぶ)

1662年 - 1712年

江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)。

新井白石の建議によって朝鮮国書における将軍の表記をそれまでの「日本国大君殿下」から「日本国王」に改めさせた。

新井白石(あらいはくせき)
新井白石(あらいはくせき)

1657年 - 1725年

旗本。政治家。朱子学者。

徳川家宣に取り立てられて正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。新井白石の建議によって朝鮮国書における将軍の表記をそれまでの「日本国大君殿下」から「日本国王」に改めさせた。


渋川春海(しぶかわはるみ、しぶかわしゅんかい)
渋川春海(しぶかわはるみ、しぶかわしゅんかい)

1639年 - 1715年

天文歴学者。囲碁棋士。神道家。

貞享暦の作成者。

貞享暦(じょうきょうれき)
貞享暦(じょうきょうれき)

初めて日本人渋川春海の手によって編纂された和暦。1685年から1755年までの70年間使用された。


シドッチ
シドッチ

1668年 - 1714年

イタリア人のカトリック司祭。本名ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ。

1708年に屋久島に潜入して捕らえられた。新井白石はシドッチとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。

徳川吉宗(とくがわよしむね)
徳川吉宗(とくがわよしむね)

1684年 - 1751年

江戸幕府第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。

享保の改革を行った。


享保の改革(きょうほうのかいかく)
享保の改革(きょうほうのかいかく)

徳川吉宗の主導で行われた幕政改革。「江戸時代の三大改革」の一つ。

  • 目安箱の設置
  • 実学重視の立場から漢和洋書の輸入制限を緩和
  • 公事方御定書
  • 新田開発の奨励
  • 貧民救済を目的とした小石川養生所の設置
大岡忠相(おおおかただすけ)
大岡忠相(おおおかただすけ)

1677年 - 1752年

幕臣。大名。現代では大岡越前守として知られている。

『公事方御定書』を編纂した。


公事方御定書(くじかたおさだめがき)
公事方御定書(くじかたおさだめがき)

犯罪と裁判に関する江戸幕府の基本法典。1742年に仮完成した。

町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)
町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)

富裕な町人が幕府や藩から請け負って開発した新田のこと。幕府は米を増産するために奨励した。


小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)
小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)

江戸に設置した無料の医療施設。享保の改革における下層民対策の一つ。

竹内式部(たけのうちしきぶ)
竹内式部(たけのうちしきぶ)

1712年 - 1768年

本名は竹内敬持(たけのうちたかもち)。竹内式部は通称。神道家。尊王論者。

竹内式部は「天皇への信仰」を教えの内容に含む神書・儒書を天皇とその側近に講義していたが、江戸幕府から朝廷運営を任されていた摂関家は幕府との関係悪化を恐れ、天皇の側近の追放を断行、竹内式部を京都所司代に告訴した。竹内式部は八丈島へ流罪となり、途上の三宅島で病没した。この一連の事件を宝暦事件(ほうれきじけん)といい、尊王論者が弾圧された最初の事件として知られる。


山県大弐(やまがただいに)
山県大弐(やまがただいに)

1725年 - 1767年

儒学者。思想家。

江戸に私塾「柳荘」を開き、多くの門弟に尊王攘夷の思想を説いたが、小幡藩士を多く弟子に取っていたことから小幡藩の内紛に巻き込まれ、幕府に謀反の疑いありと密告され、幕府もこれにかこつけて山県を処刑した(明和事件)。尊王論者弾圧事件のひとつ。

杉田玄白(すぎたげんぱく)
杉田玄白(すぎたげんぱく)

1733年 - 1817年

蘭学医。

1774年に『解体新書』を刊行する。


解体新書(かいたいしんしょ)
解体新書(かいたいしんしょ)

1774年刊行。

ドイツ人医師ヨハン・アダムス・クルムスの医学書をオランダ語訳した『ターヘル・アナトミア』を日本で翻訳した書。著者は杉田玄白(と前野良沢)。

平賀源内(ひらがげんない)
平賀源内(ひらがげんない)

1728年 - 1780年

学者。芸術家。発明家。

寒暖計やエレキテル・火院布などを開発した。


亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)
亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)

1748年 - 1822年

洋風画家、銅版画家。

松平定信に取り立てられ、銅版画の研究に務めた。

松平定信(まつだいらさだのぶ)
松平定信(まつだいらさだのぶ)

1759年 - 1829年

大名。老中。

幕政を立て直すために1787年から1793年に寛政の改革を行った。


寛政の改革(かんせいのかいかく)
寛政の改革(かんせいのかいかく)

1787年 - 1793年

松平定信が老中の時に主導して行った幕政改革。三大改革の一つ。緊縮財政、風紀取締による幕府財政の安定化を目指した。が、役人だけでなく庶民にも倹約を強要したこと、風紀取締による経済・文化の停滞などもあり定信に対する信頼の低下、庶民の反発により定信は失脚した。定信失脚後もその意思を継ぐ者たちが、この改革の方針を幕政に引き継いだ。

洒落本の取り締まり(しゃれぼんのとりしまり)
洒落本の取り締まり(しゃれぼんのとりしまり)

洒落本とは、主に遊所(遊廓など)での遊びについて書かれたガイド本。寛政の改革で取り締まられ、一時姿を消したが、寛政の後期から復活し、やがて遊里の世界を離れた滑稽本や人情本が主流になっていった。


山東京伝(さんとうきょうでん)
山東京伝(さんとうきょうでん)

1761年 - 1816年

浮世絵師。戯作者。

寛政の改革における出版統制により処罰を受けた。

林子平(はやししへい)
林子平(はやししへい)

1738年 - 1793年

経世論家。「寛政の三奇人」の一人。

『海国兵談』を出版した。


海国兵談(かいこくへいだん)
海国兵談(かいこくへいだん)

1787年から1791年に渡って刊行された、全16巻からなる政論書。林子平によって書かれた。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容。

光格天皇(こうかくてんのう)
光格天皇(こうかくてんのう)

1771年 - 1840年

第119代天皇(在位1780年 - 1817年)。

朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父よりも位が上になってしまったので、父に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとしたが幕府側の松平定信に反対されて、すったもんだの後あきらめるという尊号一件と呼ばれる事件を起こす。


大槻玄沢(おおつきげんたく)
大槻玄沢(おおつきげんたく)

1757年 - 1827年

蘭学者。

師匠は『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢。

有名な弟子に稲村三伯などがいる。

稲村三伯(いなむらさんぱく)
稲村三伯(いなむらさんぱく)

1758年 - 1811年

蘭学者。

ハルマの蘭仏辞典を基に1796年に日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させる。


ハルマ和解(はるまわげ)
ハルマ和解(はるまわげ)

1796年刊行。

蘭学者。

稲村三伯らによって編纂された日本最初の蘭和辞典。

本居宣長(もとおりのりなが)
本居宣長(もとおりのりなが)

1730年 - 1801年。

国学者。文献学者。医師。

『古事記』の研究に取り組み、『古事記伝』を著した。


古事記伝(こじきでん)
古事記伝(こじきでん)

国学者の本居宣長の『古事記』全編にわたる注釈書。

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

1765年 - 1831年

戯作者。絵師。

『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。


東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)
東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)

1802年から1814年にかけて初刷りされた十返舎一九の滑稽本。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意。主人公の弥次郎兵衛と喜多八、通称『弥次喜多』による珍道中が主なストーリー。

関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)
関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)

1805年

江戸幕府の役職。勘定奉行配下。

江戸時代後期に関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模一円)において治安が悪化していたため、関八州の天領・私領の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりに当たったほか、風俗取締も行った役職。


フェートン号事件(ふぇーとんごうじけん)
フェートン号事件(ふぇーとんごうじけん)

1808年

鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ナポレオン戦争の余波が日本にまで及んだもの。最終的に日本側に被害が出ずに解決したものの、鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため守備兵を無断で減らしていた事が事件の最中判明し、日本側の対応が後手に回った。事件後、責任を取って鍋島藩の数名が切腹した。この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。フェートン事件の後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。

ゴローニン事件(ごろーにんじけん)
ゴローニン事件(ごろーにんじけん)

1811年、ロシア軍艦艦長のゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件。対抗手段として副艦長に拿捕されカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件は解決し、ゴローニンらは無事ロシアへ帰国し、高田屋嘉兵衛も日本へ戻った。


高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)
高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)

1769年 - 1827年

廻船業者。海商。

ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。

会沢正志斎(あいざわせいしさい)
会沢正志斎(あいざわせいしさい)

1782年 - 1863年

水戸藩士。水戸学藤田派の学者・思想家。名は安(やすし)。号は正志斎。

尊王攘夷論を説いた。


二宮尊徳(にのみやそんとく)
二宮尊徳(にのみやそんとく)

1787年 - 1856年

経世家、農政家、思想家。

こんにちは。学校にでてくるオバケ「二宮金次郎」として有名な二宮尊徳です。家計がヤバい人や、経済がヤバい村を「勤労(真面目に賢く働こう)」「分度(収入の一部で生活し、残りは未来に投資しよう)」「推譲(分度で生み出した余剰の一部を皆で出し合って公共投資に使用しよう)」の三軸を中心とした報徳仕法という方法で立て直すのが得意です。

入浜式塩田(いりはましきえんでん)
入浜式塩田(いりはましきえんでん)

「塩田(えんでん)」とは、大量の海水から水分を蒸発させ、塩だけを取り出すために用いられる場所、および施設のことです。江戸時代になると、それまでの揚浜式塩田(あげはましきえんでん)という製塩法から入浜式塩田という潮の干満を利用する方法が開発され、大幅な労力の軽減が実現した。


日本におけるマニュファクチュア
日本におけるマニュファクチュア

マニュファクチュアとは、地主や商人が工場を設け、そこに賃金労働者を集め、それぞれの工程を分業や協業を行い、多くの人員を集めてより効率的に生産を行う方式のこと。日本語では工場制手工業と訳される。

日本においては1830年から1843年には大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生など北関東の絹織物業において既に行われていたと考えられる。

村方騒動(むらかたそうどう)
村方騒動(むらかたそうどう)

江戸中期から後期にかけて各地で頻発した農民の村政改革運動。村役人による不正を領主に訴えるなどした。


高島秋帆(たかしましゅうはん)
高島秋帆(たかしましゅうはん)

1798年 - 1866年

砲術家。

長崎生まれ。洋式砲術を学び、高島流砲術の創始した。幕府にその砲術を伝授した。

伊能忠敬(いのうただたか)
伊能忠敬(いのうただたか)

1745年 - 1818年

商人。測量士。

日本全国を測量して大日本沿海輿地全図を作成した。


大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)

1821年完成。

伊能忠敬が中心となって作成した日本全土の地図。

国訴(こくそ)
国訴(こくそ)

農民が法廷闘争などの合法的な手段により行った闘争。幕末にかけて頻発した。1823年に摂津・河内の1000余りの村が連合して闘った法廷闘争が始まり。


曲亭馬琴(きょくていばきん)
曲亭馬琴(きょくていばきん)

1767年 - 1848年

読本作者。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家。明治以降には滝沢馬琴とも呼ばれるようになった。

代表作に『南総里見八犬伝』。

南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)
南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)

1814年に刊行が開始され、1842年に完結した全98巻、106冊の大長編読本。著者は曲亭馬琴。


藤田東湖(ふじたとうこ)
藤田東湖(ふじたとうこ)

1806年 - 1855年

水戸藩士。水戸学藤田派の学者。

尊王攘夷論を説いた。

シーボルト
シーボルト

1796年 - 1866年

ドイツの医師。博物学者。本名フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。

1823年に鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。本当はドイツ人だが、オランダ人と偽った。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。


異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)
異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)

1825年

江戸幕府が発した外国船追放令。日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。上陸外国人については逮捕を命じている。

天保の飢饉(てんぽうのききん)
天保の飢饉(てんぽうのききん)

1833年 - 1839年

1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。江戸三大飢饉の一つ。


大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

1793年 - 1837年

儒学者。大坂町奉行組与力。

天保の飢饉による米不足のため、民衆が米価の高騰に苦しむ中、適切な対応をしない奉行や、利を求めてさらに米の買い占めを図っていた豪商に対して怒りを募らせ、1837年に門人らとともに武装蜂起した(大塩平八郎の乱)が鎮圧され、自決した。

モリソン号事件(もりそんごうじけん)
モリソン号事件(もりそんごうじけん)

1837年

日本人漂流民を乗せたアメリカ合衆国の商船「モリソン号」を異国船打払令に基づき日本側砲台が砲撃した事件。モリソン号はマカオで保護されていた日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたが、それが分かったのが砲撃の1年後であり、渡辺崋山や高野長英らが幕府の対外政策を批判した。


渡辺崋山(わたなべかざん)
渡辺崋山(わたなべかざん)

1793年 - 1841年

武士。画家。

1838年に著書「慎機論」(しんきろん)で日本の対外政策を批判し、1839年に蛮社の獄で捕らえられ、めっちゃ怒られた。

慎機論(しんきろん)
慎機論(しんきろん)

モリソン号事件を契機に、渡辺崋山が幕府の対外政策を批判して書いた私文書。


高野長英(たかのちょうえい)
高野長英(たかのちょうえい)

1804年 - 1850年

医者。蘭学者。

1838年に著書「戊戌夢物語」(ぼじゅつゆめものがたり)で日本の対外政策を批判し、1839年に蛮社の獄で捕らえられ、収監された。

戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)
戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)

高野長英が1838年に著した書。

前半では幕府の対外政策を肯定しつつ、後半では交易要求を拒絶した場合の報復の危険性を暗示するという論法で書かれている。

写本で流布して反響を呼び、幕府に危機意識を生じさせた。


蛮社の獄(ばんしゃのごく)
蛮社の獄(ばんしゃのごく)

1839年

言論弾圧事件。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。

均田制(きんでんせい)
均田制(きんでんせい)

土地を平等に分けて均等化する制度・政策。

1842年以降に佐賀藩で行われたものが有名。


水野忠邦(みずのただくに)
水野忠邦(みずのただくに)

1794年 - 1851年

大名。老中。

貨幣経済の発展に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的として1841年から1843年に天保の改革を行った。

徳川家定(とくがわいえさだ)
徳川家定(とくがわいえさだ)

1824年 - 1858年

江戸幕府第13代征夷大将軍(在職:1853年 - 1858年)。

病弱で人前に出るのが苦手だった。


マシュー・ペリー
マシュー・ペリー

1794年 - 1858年

アメリカ海軍の軍人。あだ名は「熊おやじ」。

日本に黒船を率いてやってきて「開国しろよー。開国しないとぶっとばすぞー?」って脅して1854年日米和親条約を結ばせる。これにより、日本の鎖国政策が終わった。

黒船来航(くろふねらいこう)
黒船来航(くろふねらいこう)

1853年7月にペリーが黒船を率いて浦賀にやってきて「開国してアメリカと国交を結べー!さもないとボコボコにするぞー!」と脅す。日本はちょうど将軍が病気だったため「今、忙しいから返事は一年後にね」って帰させたけど、半年後の1854年にまた来て脅す。脅しに屈した日本は日米和親条約を結び、ついに鎖国が終わる。


阿部正弘(あべまさひろ)
阿部正弘(あべまさひろ)

1819年 - 1857年

江戸幕府の老中首座。黒船が来て皆がアワアワしてたので、シャキッとせいやと思って1853年に安政の改革というのをやった。具体的には「門地・家柄に関わらず、優秀な人材を登用」「(おもに軍備に関しての)近代化政策」「アメリカの開国要求に対して諸藩に意見を求める挙国一致体制」を行いました。

日米修好通商条約
日米修好通商条約

1858年

日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。

日本側が不利な不平等条約として知られ、主に「アメリカの領事裁判権を認める」「日本に関税自主権がない」「片務的最恵国待遇」「五つの港の開港(横浜、神戸、函館、長崎、新潟…覚え方は「よ・こ・は・な・に(横は何?))」)」などがある。

これによって日本では「外国マジむかつく」「外国ぶったおせ」「外国追い出せ」的な論、すなわち攘夷論(じょういろん)が盛んとなった。


タウンゼント・ハリス
タウンゼント・ハリス

1804年 - 1878年

初代駐日アメリカ合衆国弁理公使。

1858年日米修好通商条約を締結した、アメリカ側の人。

安政の五か国条約
安政の五か国条約

1858年

江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国それぞれと結んだ不平等条約の総称。それぞれ正式名称は日米修好通商条約、日蘭修好通商条約、日露修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約。

日付は違うが、すべて1858年に結ばれた。


井伊直弼(いいなおすけ)
井伊直弼(いいなおすけ)

1815年 - 1860年

譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末に江戸幕府の大老を務めた。1858年に不平等条約である日米修好通商条約に調印したが、その責任を責められた為、ぶち切れて国内の反対勢力を1858年から1859年に渡り粛正した(安政の大獄)が、その反動を受けて1860年に暗殺され(桜田門外の変)た。

安政の大獄(あんせいのたいごく)
安政の大獄(あんせいのたいごく)

1858年 - 1859年

井伊直弼らは勅許をえないまま日米修好通商条約に調印し、将軍を徳川家茂に決定した。安政の大獄は、これらの諸策に反対する者たち100人以上を弾圧した事件である。


徳川斉昭(とくがわなりあき)
徳川斉昭(とくがわなりあき)

1800年 - 1860年

大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。一橋慶喜(徳川慶喜)の父。

安政の大獄で蟄居処分を受けた。

吉田松陰(よしだしょういん)
吉田松陰(よしだしょういん)

1830年 - 1859年

武士(長州藩士)、思想家、教育者。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。安政の大獄で捕まり、斬首刑に処された。


橋本左内(はしもとさない)
橋本左内(はしもとさない)

1834年 - 1859年

志士、思想家、越前国福井藩藩士。著書に「啓発録」がある。有能だったが、安政の大獄で斬首刑になった。

緒方洪庵(おがたこうあん)
緒方洪庵(おがたこうあん)

1810年 - 1863年

武士、医者、蘭学者。

大坂に蘭学を学ぶための適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖と言われる。


孝明天皇(こうめいてんのう)
孝明天皇(こうめいてんのう)

1831年 - 1867年

第121代天皇。井伊直弼が日米修好通商条約に調印したことに対して「マジでむかつく」と愚痴を言う。この時代、朱子学の影響で「幕府よりも天皇を尊ぼう」という尊王論というのがあった。これがやがて「外国ぶったおせ」という攘夷論と結びついて「天皇を尊んで、外国をぶったおせ」という尊王攘夷(そんのうじょうい)という考えが世の中に広まった。

徳川家茂(とくがわいえもち)
徳川家茂(とくがわいえもち)

1846年 - 1866年

江戸幕府第14代征夷大将軍(在職:1858年 - 1866年)。

井伊直弼らの支持を受けて江戸幕府第14代征夷大将軍になった。孝明天皇の異母妹である和宮と結婚したが、それが尊王攘夷派に「天皇と強く結びついて『はいはーい。幕府は朝廷と仲良しだよ!だからみんな、天皇だけじゃなくて幕府も応援しよう!』みたいな言い訳的なことを意味してるんじゃないの?」と物議をかもした。


和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)

1846年 - 1877年

孝明天皇の異母妹。第14代将軍徳川家茂と結婚した。

公武合体(こうぶがったい)
公武合体(こうぶがったい)

幕末の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府および諸藩(武)を結び付けて幕藩体制の再編強化を図ろうとした政策論、政治運動。対義語は尊王攘夷。


紅花(べにばな)
紅花(べにばな)

キク科ベニバナ属の一年草。紅色染色や食用油の原料として使用される。この時代、産地としては出羽(現在の山形県・秋田県あたり)が有名。最盛期の幕末・文久(1861~1864)のころには、舟運の中継地であった大石田(現・大石田町)に集まった紅花は1550駄に達したとされる。

参考
紅花について:山形の紅花栽培の歴史と現状|おいしい山形ホームページ

島津斉彬(しまづなりあきら)
島津斉彬(しまづなりあきら)

1809年 - 1858年

外様大名。薩摩藩第11代藩主。島津氏第28代当主。

薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。1858年8月24日に病死した。暗殺説もある。


島津久光(しまづひさみつ)
島津久光(しまづひさみつ)

1817年 - 1887年

政治家。幕末の薩摩藩の事実上の最高権力者。

島津斉彬の異母弟。安政の大獄で優秀な人が次々粛清されるわ、しかもそれを行った井伊直弼が暗殺されるわで日本がどうにもならない感じだったから、いっちょ俺が公武合体運動を推進させるかと思って1862年に薩摩から兵を率いて京都に行く。

寺田屋事件(てらだやじけん)
寺田屋事件(てらだやじけん)

1862年

京都の旅館・寺田屋で発生した事件。島津久光は尊王攘夷派に期待されていたが、久光自身は公武合体派であり、1862年4月16日に入京した久光は朝廷より志士始末の命を授かる。京都の志士たちはこの展開に驚愕し、薩摩藩の過激派は久光に無理やりでも蜂起を促すことを画策。志士暴発の噂を聞いた久光は剣術に優れた8人を過激派がいる寺田屋に派遣し、双方が斬りあった。その後「同じ薩摩藩士での同士討ちはやめよう」と説得しあい騒動は収まった。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へ向かった。


三島通庸(みしまみちつね)
三島通庸(みしまみちつね)

1835年 - 1888年

武士(薩摩藩士)。明治時代の内務官僚。

明治時代に活躍する人。寺田屋事件に関与して謹慎を命じられる。

島津久光(しまづひさみつ)
島津久光(しまづひさみつ)

1817年 - 1887年

政治家。幕末の薩摩藩の事実上の最高権力者。

1862年、寺田屋事件の後、朝廷に対する久光の働きかけにより5月9日幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、勅使とともに兵を引き連れて江戸へ行き文久の改革という以下の内容の改革を行わせた。

  • 若年の将軍徳川家茂の補佐役として一橋家当主の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)将軍後見職に任命
  • 松平慶永(松平春嶽)を新設の政事総裁職に任命。
  • 京都守護職を新設し、松平容保を任命。
  • 参勤交代の緩和
  • 洋学研究の推進
  • 軍事改革
  • 「服制変革ノ令」の発布

松平容保(まつだいらかたもり)
松平容保(まつだいらかたもり)

1836年 - 1893年

幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主。

1862年に文久の改革により、京都の治安を守る京都守護職に就任した。

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)
松平春嶽(まつだいらしゅんがく)

1828年 - 1890年

大名、政治家。第16代越前福井藩主。幕末の四賢侯の一人。松平慶永(まつだいらよしなが)とも呼ばれる。1862年に文久の改革により政事総裁職に就任した。


一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)

1837年 - 1913年

1862年に文久の改革により将軍後見職に就任。

徳川家茂(とくがわいえもち)
徳川家茂(とくがわいえもち)

1846年 - 1866年

江戸幕府第14代征夷大将軍(在職:1858年 - 1866年)。

1863年に将軍としては229年振りに京都に行ったら、孝明天皇に「外国をぶったおしてね!攘夷!攘夷!」って言われて「外国の方が並外れて軍事力あるから攘夷とか無理無理カタツムリやわ……」って思ったけど、空気読んで「おっけー」って応えて「1863年5月10日から攘夷してね」って諸藩に伝えた。「ただし、外国はマジで強い。ヤバい。勝てない。勝てないのにこういう命令を出す意味考えろ。空気読め」的なことも伝えた。


孝明天皇(こうめいてんのう)
孝明天皇(こうめいてんのう)

1831年 - 1867年

第121代天皇。徳川家茂が京都に来た時に「外国を撃退して攘夷してね。シクヨロ~」って言う。

久坂玄瑞(くさかげんずい)
久坂玄瑞(くさかげんずい)

1840年 - 1864年

長州藩士。

「『1863年5月10日から攘夷してね』って言われたし、今日5月10日だから攘夷しよう」と思って外国船を攻撃した。一応勝ったけど、1864年に外国の軍船による報復を受けて、長州藩はズタボロに負ける。以降、長州藩は外国に対する認識を「外国やべぇ」に改めた。これらの長州藩と外国との争いを下関戦争(しものせきせんそう)という。玄瑞は1864年の禁門の変にも参加したが敗れ、自害した。


禁門の変(きんもんのへん)
禁門の変(きんもんのへん)

1864年

前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件。

戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派はその勢力を大きく後退させた。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる。

世直し一揆(よなおしいっき)
世直し一揆(よなおしいっき)

幕末期は開国を契機とした社会不安の増大や政治権力の不信を背景に、各地で世直し一揆打ちこわしが頻発した。


徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

討幕派を牽制しつつ1867年1月に江戸幕府第15代征夷大将軍に就任し名前も一橋慶喜から徳川慶喜になった。同年11月、討幕派を抑えることが困難とみて、それまで形式的に「朝廷に依頼されて幕府が日本を統治する」となっていたが、朝廷にその権利を返上した(大政奉還)。しかし、征夷大将軍の職は辞さず、朝廷に権利を返上した後も「朝廷に政権運営の能力はなく、新政府に徳川家が参画すれば、実質的に政権を握り続けられる」との思惑もあった。その後、それでも討幕派の動きを止められないとみて、将軍職を辞することを朝廷に申し出たが、保留とされた。

ええじゃないか
ええじゃないか

1867年に伊勢神宮のお札などが空から降ったことを契機に、人々が「ええじゃないか」と歌い踊りながら町や村を巡り歩き狂喜乱舞した民衆運動。


明治天皇(めいじてんのう)
明治天皇(めいじてんのう)

1852年 - 1912年

第122代天皇。

1867年に徳川慶喜に「大政奉還するわ」って言われたから「了解だよ」って返事する。そしたら今度1868年に討幕派に「いやいや、幕府側は新政権でも実権を握るつもりだから、幕府側を確実に潰しておこうよ」って言われたから世間に「幕府ぶっ潰すわ」って発表する(王政復古の大号令)。王政復古の大号令の詳細は以下。

  • 「徳川慶喜の征夷大将軍の辞職を許す」
  • 「京都守護職・京都所司代の廃止」
  • 「幕府の廃止」
  • 「摂政・関白の廃止」
  • 「新たに総裁・議定・参与の三職をおく」
岩倉具視(いわくらともみ)
岩倉具視(いわくらともみ)

1825年 - 1883年

公家、政治家。

1868年に明治天皇に「王政復古の大号令しようぜー。うぇーい」って言って王政復古の大号令を出させる。また、それに伴い新政府の参与(下級廷臣ないし藩士によって構成された議員)になった。


山内容堂(やまうちようどう)
山内容堂(やまうちようどう)

1827年 - 1872年

土佐藩15代藩主。

色々微妙な立場の人。自分を藩主に押し上げてくれた幕府に恩を感じており、王政復古の大号令を出すための会議の際は徳川幕府側を擁護し「徳川慶喜のいない場でこんな大事な話し合いをするの?馬鹿なの?なんなの?」的なことを言うが、最終的に酔っていたので無視される。王政復古の大号令によって議定(皇族・公卿・諸侯が任命された議員)になる。

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)
松平春嶽(まつだいらしゅんがく)

1828年 - 1890年

松平慶永(まつだいらよしなが)とも呼ばれる。1868年の王政復古の大号令に伴い議定(皇族・公卿・諸侯が任命された議員)になった。


大久保利通(おおくぼとしみち)
大久保利通(おおくぼとしみち)

1830年 - 1878年

武士。政治家。

王政復古の大号令に伴って参与(下級廷臣ないし藩士によって構成された議員)になる。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
西郷隆盛(さいごうたかもり)

1828年 - 1877年

薩摩藩の武士。軍人。政治家。

幕府を見限っていたので、江戸に不穏分子を集めて放火、略奪、暴行をやらせ、幕府を挑発し、戦争に持っていこうとする。さすが西郷。きたない。でも、徳川慶喜は大政奉還で対抗。さすが慶喜。きたない。西郷含む討幕派は王政復古の大号令で対抗。さすが西郷。きたない。王政復古の大号令が出たので、西郷も「もう騒乱はやめていいよ」って命令したけど、不穏分子達は討幕の熱意を抑えきれず、騒乱行為はますます拡大。


徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

1837年 - 1913年

王政復古の大号令以後も江戸で騒乱を繰り返す奴らに幕府側ブチ切れて1868年に江戸にある薩摩藩邸を焼き討ちする(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。大坂でその報せを聞いた慶喜は「薩摩を討つべし」の声の高まりを受けて、1868年「薩摩ひどいよ」って朝廷に訴えるために兵を上げて京都へ出発。これに対して新政府側は天皇の軍であることを示す「錦の御旗」を掲げて迎え撃ち、新政府側が勝利した(鳥羽・伏見の戦い)。慶喜は江戸へ脱出した。

鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)
鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)

1868年

戊辰戦争の初戦となった戦い。


勝海舟(かつかいしゅう)
勝海舟(かつかいしゅう)

1823年 - 1899年

幕臣。政治家。

江戸に逃げた徳川慶喜を追い、新政府軍が江戸に迫った。勝海舟は幕府側の人間として西郷隆盛と交渉し、西郷側から出された今後の徳川慶喜の身の振りなどの条件を飲むことで江戸を戦場とせずに明け渡すことになった(1868年 江戸開城)。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
西郷隆盛(さいごうたかもり)

1828年 - 1877年

勝海舟と会談し、江戸開城を成し遂げた。また、その後、日本各地で幕府側の残党と新政府軍が戦ったが、最終的に新政府側の勝利となった。1868年から1869年にかけての、鳥羽・伏見の戦いから始まり、最終的に旧幕府軍が敗れるまでの戦いをまとめて戊辰戦争という。


大村益次郎(おおむらますじろう)
大村益次郎(おおむらますじろう)

1824年 - 1869年

医師。西洋学者。兵学者。維新の十傑の一人。

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。