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安土桃山時代(1573年 - 1603年)

安土桃山時代(あづちももやまじだい)
安土桃山時代(あづちももやまじだい)

1573年頃 - 1603年

織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代。桃山文化と呼ばれる豪壮・華麗な文化が花開いた。主に「人形浄瑠璃」「濃絵」「隆達節」「侘茶」などが有名。

小袖(こそで)
小袖(こそで)

戦国・安土桃山時代には小袖が女性の普段着として一般化した。


織田信長(おだのぶなが)
織田信長(おだのぶなが)

1534年 - 1582年

足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして天下人となった。

徳川家康(とくがわいえやす)
徳川家康(とくがわいえやす)

1543年 - 1616年

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田信長と協力関係にあった。


武田勝頼(たけだかつより)
武田勝頼(たけだかつより)

1546年 - 1582年

甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。

長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れた。

長篠の戦い(ながしののたたかい)
長篠の戦い(ながしののたたかい)

1575年

三河国長篠城をめぐり、三万八千の織田信長・徳川家康連合軍と、一万五千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。騎馬主体の武田勝頼の軍に対して、織田信長・徳川家康連合軍が銃を巧みに使用して勝利。


織田信長(おだのぶなが)
織田信長(おだのぶなが)

1534年 - 1582年

1582年に部下の明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。

明智光秀(あけちみつひで)
明智光秀(あけちみつひで)

1528年? - 1582年

武将。大名。

織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして織田信長を自害させた。直後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗れる。


本能寺の変(ほんのうじのへん)
本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年

京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件。

参考
法華宗大本山 本能寺

豊臣秀吉(とよとみひでよし)
豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1537年 - 1598年

武将。大名。天下人。

当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に士官し、次第に頭角を現した。織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得た。日本の統一がひと通り済むと、明の支配を狙い、1592年から1593年に、その侵略途上にある朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)した。1598年に病死した。


姜沆(きょうこう)
姜沆(きょうこう)

1567年 - 1618年

豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)の捕虜として日本へ移送された。日本滞在時に藤原惺窩と交流し彼の朱子学の体系化に大きな感化を与えた。のち帰国。

藤原惺窩(ふじわらせいか)
藤原惺窩(ふじわらせいか)

1561年 - 1619年

儒学者。

相国寺に入って禅僧となり朱子学を学んだ。その後、姜沆との交流を経て儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容した。近世儒学の祖と言われる。


石田三成(いしだみつなり)
石田三成(いしだみつなり)

1506年 - 1600年

武将。大名。豊臣家家臣。佐和山城城主

豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、力をつけた徳川家康に反発し、これの打倒のために毛利輝元ら諸大名と共に西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)

1600年

美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた野戦。

豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が関ヶ原での戦いを含め各地で戦闘を繰り広げた。徳川方が勝利し、後の江戸幕府への道筋が開かれることになる。


徳川家康(とくがわいえやす)
徳川家康(とくがわいえやす)

1543年 - 1616年

豊臣秀吉の死後、着々と力をつけ、1600年に「天下分け目の戦い」とも言われた関ヶ原の戦いで石田三成に勝った。江戸幕府の初代征夷大将軍。